「お互いの弱さを知る」(マリッジセミナー) Y・Kさん
今回マリッジセミナーを受け、改めて神様が望んでおられる夫婦の在り方を学ぶ事ができ、すごく感謝でした。
私達夫婦は比較的仲も良く、家でも会話のある方で、結婚12年になりますがあまり大きなケンカもなく、自分で言うのもなんですが円満な夫婦関係だと思っていました。だから、今更マリッジセミナーで何を学ぶのか、家内とも「俺たちには必要ないな~」と言っていたぐらいです。1期目のマリッジセミナーを受けた方から「夫婦仲が良い所はさらに良くなるよ。」と言われ、これ以上仲が良くなるってどうなるんやろうと楽しみに、セミナーを受けました。
セミナーでは、それぞれのテーマに沿ってじっくりと2人でお互いの話をします。今まで自分が知らなかった家内の思いであったり、今更そんな事言わなくていいやろということであったり、家ではなかなか話す事がなかった事を落ち着いた気持ちでお互い聞けたことで分かりあえた事が、自分にとって感謝でした。 1番の恵みは、自分の弱さを改めて知り、また相手の弱さを知り、赦し、その事を受け入れる事でした。自分は今まで家内の弱さを知っているつもりで、責める事などしていないと思っていました。家内は何かをする時の段取りに手間をとり、なかなか時間通りにいかないことが多々あります。私はそれを見てイライラとしてしまうのですが、「口には出さないまでも、そのイライラした態度で責められている思いであった」と家内に言われました。自分も本当は口に出して言いたことを、言ってはいけないと思いグッとこらえていて、それが態度に出ていたのだと思います。しかし家内はそんな私の態度に対して責められている思いがありながら、私に反論したり責めたりする事はありませんでした。
セミナーで学んで示された事は、自分の弱さは、時間を守る事に対して厳しく、段取り良くできない人を裁いてしまう所があるということ。そう思うと、今まで大きなケンカもなかったのは、家内が、イライラしている私の態度に対しおおらかな気持ちで反論もせず、赦し受け入れてくれていたからだと示されました。それから、家内の段取り良く時間通りにできない弱さを、自分ができる事でフォローしたらいいのではないかと思えるようになり、家事もイヤイヤではなく気持ち良く手伝えるようになりました。家内も喜んでくれ、いつも「ありがとう」と言ってくれ、前よりお互い思いやる気持ちが出て、仲が良くなったと思います。
これからもマリッジタイムを持ち、お互いの話をする事で、赦し受け入れ、助けあっていく夫婦関係を築いていきたいと思います。
「チャレンジャーキャンプの恵み」 M・Mさん
今回は、交通渋滞のためフェリーの時間に間に合わないなど、初日からハプニングの連続で、ハラハラしました。でも3日間ホントに恵みをいっぱいに受けることが出来、とても良いキャンプとなりました。プログラムも充実していて、スタッフの方が考えてくださった「どうぶつの森」、飯盒炊さん等で他の教会の子たちとも仲良くなりました。また、2日目の午前中には分科会で「ボール遊び」、「賛美」、「メイク」、「カメラ」、「カヌー」の6つに分かれて過ごすのですが、私の場合、賛美を選んだので、朝から晩までたっぷりと賛美することができました。
そして、やはり一番の恵みはチャレキャンに参加できたことです。 私は最近、人間関係の悪化によって、部活の中に自分の居場所がなくなり、魅力も感じられなくなり、孤独と苦痛に耐えることができなくなって、辞めようと思っていました。しかし、先輩から「部長になってくれ」と言われ、辞めることが難しくなりました。まるで、重くて大きい鎖を取り付けられたみたいに、身動きがとれなくなっていました。 そんな中で、部長として部活を取るか、クリスチャンとしてキャンプを取るか、迷いました。また、部長に任命されたことによって、周りの部員たちの目が変わり、「部長なのに・・・」と言われることが多くなり、教会を優先したいのに部員の目が怖くてなかなか部活を休むことができませんでした。 でも、思い切って部活よりもチャレキャンを優先したとき、たくさんの恵みが与えられました。
大好きな賛美をみんなでのどがガラガラになるまで歌うことができたこと、同じ教会の子や他の教会の子と交わることができたこと、そしてこのキャンプでしか聞くことができないメッセージを聞くこともできました。 1日目のゴスペルタイムの時、キャンプリーダーが「Foot Prints」という曲の詞を紹介してくれたとき、まさに今の自分にドンピシャで、涙が止まりませんでした。今は圧しつぶされそうなほどに不安で、辛くて、自分の思い通りにいかなくてしんどいけど、それは神様が自分を背負って歩いて下さっていて、神様のご計画が進んでいる時なんだということが分かりました。だからこの経験は絶対益としてくださる、と確信を持つことができました。今は、本当にどうしていいかわからなくて、先は全く見えないけれど、神様に助けを求め、神様と一緒に歩みながら乗り越えていこうと決心しました。
「イエス様に守られて」 D・Wさん
2016年11月、僕はいつものように会社で仕事をしていました。仕事の内容は、車の部品を作る金型作りで、いろんな重さの鉄の塊を機械にはめ込んで金型を作っています。その物がどういう状況でなったのかはわかりませんが、機械から外れて約30キロの鉄の塊が私の方へ飛んできました。そして、頭をかすっていき、私は気を失いました。すぐに病院に運ばれて検査をし、頭蓋骨に10センチのひび、脳の内出血、脳挫傷と診断されました。妻や上司がすぐに駆けつけてくれましたが、あまりの痛さでまともにしゃべることができませんでした。そして、会社から病院に運ばれている間、気を失っていたのですが、その間にとても不思議な体験をしました。そこは真っ暗な所でした。そして、なぜか私のそばに神様がいるとわかりました。私は神様に聞きました。
W 「ここは、懺悔の場所ですか。」
神様「違うよ。」「あなたが来るのはまだ早い。」
W 「ぼくは死んでいないのですか。」
神様「死んでいないよ。私が助けたから。」
W 「なんで僕は、何も覚えてないのですか。」
神様「私が、その記憶を取ったから。今後あなたのためにならないから。不安や恐れが残ってはいけないから。」
W 「でも助けてもらった所を何も見ていないのに・・・。」
神様「じゃ、Wは私が助けた所を見ていないから、私が助けたことを信じないのか?」
W 「信じます!信じます!」(焦りながら…)
内容は覚えていませんが、少しまた話をして、
神様「Wにお願いがある。」
W (なんで神様がわざわざこんな俺にお願いすることがあるんやろう?何でもできるお方やのに・・・なんで俺なんやろう?と思いながら)
「何ですか?」
神様 「私が、Wを助けたこと、私の事を思うがままにこれから、いろんな人に伝えてほしい。その伝えた人がクリスチャンになるかならないかは、Wは何も考えなくていい。心配しなくていい。それは私たちと、私たちに仕える者が決めることだから。心配しなくていい。これからも私たちがWのそばにいるから。」
そして、僕は目が覚めました。その後お医者さんや会社の人から、自分に起きた事故の様子を聞きました。「あと1センチでもずれていたら死んでいた。鉄の塊がWを通り過ぎるスペースなんかないのに、なぜ頭をかすっただけで済んだのか。Wが今生きているのは奇跡の他はない。」とのことでした。でもぼくは何も怖くありませんでした。神様が守ってくれていると知っているから。
この事を通して、今まで自分が一番恐れていたことを取り除いてくださいました。自分はクリスチャンにもかかわらず、死に対してとても恐怖でした。天国があると知っていても本当に行けるのかとかを考えるだけで涙が止まらず、ずっと恐怖でしかありませんでした。しかし、神様との最初の会話で「あなたが来るのはまだ早い。」のところで、「天国は本当にあるんだ。」そして「自分は行けるんだ。」と確信を持つことが出来ました。長い間あった死に対する恐怖は神様によって取り除かれました。
今まで自分勝手なことをしてきて、自分がピンチの時だけ「神様助けて!」と祈っていました。しかし神様は、ずっとそばにいてくれ、いつも助けてくれ、こんな僕にさえも愛を注いでくれていました。神様からのたった一つのお願いを僕は、恐れず思うがままにたくさんの人に伝えていきたいと思います。
「父の思い出」(召天者記念礼拝) U・Mさん
私の父は、2015年6月に75歳で地上の生涯を終え天に召されました。父の思い出を少しお話し致します。
父はとても器用で几帳面な人でした。マッチ棒で五重塔を作ったり、たばこのケースで傘を作ったり、私の夏休みの工作を手伝ってくれたり、市営住宅に住んでいた時は、お風呂場まで作ってくれました。日曜大工、盆栽、囲碁、将棋、麻雀、パチンコ・・・何でも上手でした。私が小学生でH区に居た頃は子供会のお世話をしてくれていて、キックベースボール、ソフトボール、ハイキングやキャンプなど、私の楽しかった友達との思い出の中には父も一緒にいます。PTAの役員をしていましたので、イベントの時に父が挨拶する姿を誇らしく思っていた記憶があります。父はその頃にできた友達を大切にしていて、亡くなるまでずっとお付き合いがありました。私が中学生の時は、学校までいつも父と一緒でした。父の職場がたまたま同じ方向でしたので、毎朝、車の助手席に乗り、途中朝食にパンを買ってもらい、阪神タイガースが勝ったら大騒ぎするラジオ番組を聞きながら校門まで送ってもらいました。
大人になってから、父みたいな人になりたいなと思った出来事がありました。親戚の家族が亡くなった時、知らせが入ると父はすぐに駆け付けました。巧みに慰めの言葉をかけるわけではなく、出しゃばってその場を取り仕切るのではなく、そっと傷ついている人のそばに黙って寄り添っているのです。そして必要な時にして欲しいと思っていることをスッとしてくれている・・・そんな人でした。
口は悪かったです。気持ちが昂ると怒ったような物言いをしたりしました。頑固でした。絶対自分の考えを曲げようとはしませんでした。しかし、私の話はちゃんと聞いてくれて、意思を尊重してくれる父でした。孫たちが生まれると甘やかすというのではなく、大切にし、可愛がってくれました。ゲームやパズルが大好きな父は、孫たちと遊ぶ時も決して手を抜くことなく、孫たちを負かして得意そうに笑うその顔が私は好きでした。
退職した後も職場の人達と釣りを楽しみ、H区の友達とゲートボールを楽しみ、大好きなお酒を楽しみ・・・。娘の私から見ると大きな苦労もなく幸せな人生だったのでは・・・と思います。
父の職場の友達が精神的に病んでしまった時、いとこのおばさんが癌で亡くなった時、父は何か助けを求めて野口牧師先生のところへ話を聞いてもらいに行ったことがありました。「70になったら教会にいくわ。」と父は言っていましたが、実際は70歳になる前から少ずつ礼拝に顔を出してくれるようになりました。
私が18歳でイエス様を救い主と信じた時、
《主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます。》使徒16:31
このみ言葉を握って祈り始めましたが,ようやくその恵みが父にまで及ぶ兆しが見えて,とてもうれしく思いました。教会ではみなさんが父に色々と声をかけて下さったのに、シャイで頑固な父はなかなか素直になれなかったみたいです。本当はとても優しいのに上手に表に出せない父が、教会の兄弟姉妹方とどうしたら親しくなれるのかと心配したり、受洗の証なんかは緊張するだろうなぁ、どんな話を私は聞くことになるのかなと楽しみにしたり、自分の中で色々思い描いていました。
元気だった父が、少し食べたものがつかえると言い出し、病院で診察を受けてから亡くなるまでは、あっという間の約一か月でした。診察の日,私は仕事が休みで実家へ行くと、父が病院に検査に行っていると母に言われました。病院嫌いの父なので「ちょっと様子を見てくるね。」と病院まで行きました。検査を終え待合でナンバークロスワード(ナンクロ)をしていた父。父はいつもナンクロの雑誌を買い、すべて解いて「応募するとテレビやDVDプレイヤー、現金10万円が当たるんやってー♪」と楽しみにしている私にくれるのでした。フリクションのボールペンを3色使ってどんどん問題を解いていく父。「このオレンジは何のしるしなん?」と聞くと丁寧に説明して教えてくれる父。小学生の時に分からない算数の問題を教えてくれた優しい父がそのままそこに居て、私はとても幸せなひと時でした。
その日の検査結果は一週間後に出るとのことでしたが、次の週の月曜日に病院から呼び出しがあり、胃がんと診断され、入院、検査、手術となりました。術後は少し回復し、家に戻れると言われたにも関わらず容態は悪化し,ICUに入りました。とても苦しそうでしたが、まだかまだかと朝から待っていた野口牧師先生、幸子先生が来て下さり、夕方6時に病床洗礼を授けて頂きました。翌日はもうモルヒネで痛みを取るのと引き換えに意識がなくなり、次の日、家族・親族大勢の人に見守られながら天に召されました。
《人の心が思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために神の備えてくださったものはみなそうである。》 第1コリント2:9
私が心に描いていた、父の賜物がイキイキと生かされ教会生活を送ることはありませんでした。父の救いの証を聞くこともありませんでした。けれど、父はイエス様の救いの恵みに入れて頂き、父の葬儀の時には大勢の方が来られ、父がどれほど多くの人に慕われていたのかを知る事ができました。親族をはじめ、きっと生涯教会には来る事はないだろうと思われる方にも福音を聞いて頂ける良い機会として用いられたのは、とてもうれしい事でした。遺された母は、娘の私には想像できない程の悲しみがあったと思いますが、神様の守りの中でなんとか日々過ごせているのは、とても感謝なことです。
父はあまり教会に繋がっていませんでしたが、みなさん、どうぞ父のことを覚えていて下さい。天の御国で会った時には声をかけてあげて下さい。シャイなところ、頑固なところも取り去られて、優しさ溢れる笑顔の素敵な父になっていると思いますから
「成人を迎える娘の母として」(成人祝福式) S・Kさん
私、ピンクの振袖がいい」と言っていたおしゃれ大好きな長女は、3年前の成人式にメンタルの弱さから振袖を着ることが出来ませんでした。長女に「振袖着なくてもお母さんは全然かまわないけど、将来成人式の写真がなくて大丈夫?」と聞くと、「大丈夫、今の自分なんか残したくないから」と言っていました。成人祝福式の日には私は割り切っていたつもりだったのですが、長女と同学年の成人の方々が晴れ姿で講壇に並んでいるのを見ているとうっすらと涙が浮かんできました。
今回は次女のMの成人祝福式。今から1年半くらい前、私と同じようにあまりファッションに興味なさそうなMに「成人式どうしたい?」と聞くと「それは振袖着なあかんやろ」と言うので、「なんかおばあちゃんが和裁の練習とか言って5、6年前に振袖作ったみたいやけど、それ着る?それとも好きな着物レンタルする?」と聞くと「それ着たらMたちはお金かからへんし、おばあちゃんは喜ぶし、WIN-WINやから着る」と、Mは振袖の柄も確かめずに私の母の作った振袖を着ると決めてくれました。
成人のこの日を迎え、Mの20年を振り返ると色々なことがありましたが、あっという間の20年でした。そんな中、今週14日、15日は3回目のセンター試験へのチャレンジです。その後3度目の芸大の2次試験です。2年前現役で不合格の時は、淡々とした表情で「M、大丈夫やから気遣わんでいいよ」と言って、さらに1年コツコツと学科の勉強、絵の勉強に励んでいました。昨年不合格だった時にはさすがに暗い顔をしてうつむいていましたが、すぐに気を取り直して2週間後の第二志望の大学の受験に備えて画塾に通っていました。この大学の受験の時には私も気合いを入れて、Mが試験を受けている間はホテルやスタバで断食(コーヒーは飲みました)して、聖書を1章読んではMの合格を祈ることを、2日間のMの試験中ずっと続けました。牧場でも、とりなしの祈りでも祈ってもらっているし、この大学から歩いて15分くらいのところには同盟教団の教会もあるし、Mはここに導かれているに違いないと私は勝手に確信していました。
ところが結果は不合格。Mもさすがに落ち込んで涙を流していました。でも次の日には「滑り止めの私立大学に行く」と言って準備をはじめていました。その後「あと1日考える」と言って画塾に行き、帰ってきたら「やっぱりもう1年頑張ってみる」とすっきりとした顔で言っていました。私はというとMが不合格になって以来、神様に「いったいどういうことなんですか。こんなに地道にコツコツと頑張ってきた子を落として何が面白いんですか」「あんなに祈ってもらったし、私も祈ったじゃないですか」とぼやき続け、神様を信頼するってどういうことなのか、祈るって何なのかわからなくなってしまいました。そしてMにも「M、神様に腹立たへんの?」と聞いてしまいました。するとMは「ぜんぜん」とさらっと答えていました。
去年1年間低迷状態の信仰生活を送っていた私に対して、Mはこの1年もコツコツと学科の勉強と絵の勉強を続けています。だから今年こそMの努力が報われてほしいなあと思っています。
昨年ヤングJの各牧場への編入により、MはN牧場に行かせていただきました。牧者夫妻をはじめ牧場の方々にはあたたかくもてなしていただき、Mの進路のためにも力強く祈っていただいています。また野口先生、幸子先生、忍先生、ヤングJの方々をはじめ多くの教会の方々も祈り励まして下さっています。本当にありがとうございます。
そして今日の日のためにNさんが着付けをしてくれ、この場にはいませんが長女がヘアメイクをしてくれました。このように、どんなときにもひとりぼっちではなく、たくさんの方々が見守って支えてくれていることをいつも覚えて感謝し、その素直な信仰を持ち続けて、これからも夢に向かってチャレンジしていってほしいと思っています。今年合格してもしなくても、私たち家族はMの地道な努力とチャレンジを誇りに思っています。
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