神様とはどのようなお方でしょうか。幼稚園児や小学生に絵を描かせるとよく、雲に乗り、長い杖を持った白い衣の白髪の老人となります。人は見ず知らずのものを思い浮かべる時、どうしても身近なものを延長して考えざるを得ません。先の神様のイメージでいけば、神様であるから大変な知恵者であろうから、それを老熟した年齢で表し、聖さは純白の衣、超能力は、雲に乗ることで表現しているのでしょう。
ギリシャ神話や、日本神話を読んでも、神様の姿は上述のイメージとさほど変わりません。つまり、人間の延長であり、人間よりも優れた能力を持ってはいるが、行動や性格は人間とあまり変わりがなく、まことに人間臭いのです。
しかし、聖書の神はどうでしょうか。この方を知る時、他の神と呼ばれる存在と全く異質なことに驚きます。有名なウエストミンスター小教理問答に「神はどのようなお方であるか」という問いがあり、その答えは、「神はその存在と智恵、力、聖、義、善、真実において永遠、無限、不変の霊である」です。
私たち有限な人間がまことの神をすべて理解し、描くことなど出来ないと聖書は教えています。有限な者は、無限なるお方を把握出来ないし、造られた者は創造者なる方を完全に知ることなど、まったく不可能です。
だが、まことの神は、私たちの救いと成長のために、私たちが知らなければならない知識を与えられました。この知識を聖霊様が用いて下さる時、人は神を理解し、信じ成長することが出来るのです。また、人がまことの神様を見、分かるようにと送られたのが神のひとり子、歴史上に人となって現れて下さったイエス様でした。
「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)。イエス様によって、私たちは神さまの本質をよく知ることが出来るのです。
インドネシアの元宣教師入船尊先生が「新この大いなる福音のために」という本の中で待つことについて記しています。
待たなくては、何事もすまない国から日本に帰って来ての戸惑いは、待つことが少ないことです。
「インドネシアに行って、何が一番大変でしたか」と、ある人が私に尋ねました。すかさず私は「待つことです」と答えました。何でもスピーディーに事が運ぶ国に住んでいる人間は、世界中どこに行っても、物事が素早く運ぶものと思っています。
ところがどうして、一枚の書類にサインをもらうために、毎日毎日役所に足を運んで待たなければならないこともあります。ゆっくり働いて、午後二時になると「あぁ時間だね、明日に来て下さい」となるわけです。
こんな時、不快な表情をしようものなら、「こんな小さなことにもイライラして、自分の感情をコントロール出来ない器の小さな人間だな」と思われてしまします。とても牧師として尊敬を受けることなど出来ません。どんなにムカムカしていても、ニッコリ笑ってその場を去らなければなりません。そして、家に帰るなり「あぁ、こんなことがあっていいものか!」と怒ればよいのです。
いらちな大阪人にとってインドネシアは耐え難い国かもしれません。
入学を待つ人、卒業を待つ人、結婚を待つ人、人生はそれぞれです。
聖書を見る時、待つことは信仰の訓練とされています。アブラハムも、イサクが与えられるまで長い間待ちました。旧約で約束されていた救い主誕生の預言は、旧約最後のマラキ書が書かれてから約四百年後に成就しました。
私事で言うなら父の救いを祈り出したのが信仰を持った16歳の時、それが一方的な恵みの中で実現したのは47年後のことでした。待った時間が長かっただけに、いまだに信じられないような喜びが続いています。
みなさんもそれぞれ、祈り待ち望んでいることがあるでしょう。その実現が一つでも多くこの年に起こされ、ともに御名をあがめたいものです。
私が今、神様に祈り求めていることの一つが「知恵を与えて下さい」である。それは牧会者として、物事を見抜き、正しく判断し、最も良い方法を迫られることが多いため、自分の能力ではどうすることもできず、聖霊様の助けを求めるためである。
それについて、おもしろいエピソードを思い出す。四日市の堀越暢治師が松原に来てこんなことを語ってくれた。
「私はある時、ソロモンが眠っているうちに主から知恵を与えられた話を読み、夢の中で知恵を求めたソロモンに同感すると共に、知恵を与えられたソロモンをうらやましく思い
ました。でも、ソロモンだからそうしてもらえたのだとあきらめていました。ところが、新約聖書のヤコプ書の中に、私は驚くべき約束を発見しました。
『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。』(ヤコブ1:5~7)
私は『しめた!』と思いました。そして、私も主に願いました。『私もソロモンのように知恵が必要です。お与え下さい。ソロモンほどでなくても結構ですから…』。今、私は主から知恵を頂けたことを感謝しています。ただ、『ソロモンほどでなくても結構です』は、一言多かったかな…と反省していますが。
もともと私は、いやな事があると、すぐやめて逃げていましたが、逃げては駄目だと教えられ、困難が起こった原因をつきとめるよう努力しました。原因がわかれば解決のための取り組みをしやすくなるからです。そして、その解決策を見つける時、主から知恵を頂いているな、と思っています」と。
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