ひとり子をお与えになったほどに

 能力や実力、人気などで、人の価値をはかる考え方を「使用価値」という。リストラや派遣社員切りなどは、会社にとっての使用価値による判断だろう。これも尺度の一つではあるが、それだけでは、病気の人や幼子、チャンスに恵まれない人はどうなるのか?聖書には別の価値観が書かれている。

 

 ルカ15:8-10は、イエス様の例え話の一つで、人間を銀貨に例え、一枚でもなくしたら捜し回り、見つけたら大喜びする神様の愛が語られている。イエス様は別々な例え話をされているが、人間を命のないもの(銀貨=貨幣)に例えているのはこの箇所だけであり、ここからイエス様の人間に対する価値の尺度を知ることができる。

 

 使用価値で物をはかると、新品で性能の良い物は価値が高いが、やがて中古品となり、最後にはゴミとなる。しかし貨幣はそうではない。貨幣の価値は、新しくても古くても変わらないからだ。一万円は一万円である。そういう意味で物としては特殊であり、このように新しさや能力によっては変わらない価値を「存在価値」という。イエス様は、あえて人間を貨幣に例えられ、存在自体に価値があることを教えてくださっている。

 

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネ3:16)」とあるように、神様は、ひとり子であるイエス様をこの地上に送ってくださり、人間の罪の身代わりとして十字架にかけるまでに、人間に価値を見出しておられる。そしてその存在価値は、幼子も高齢者も、男も女も変わらない。私達一人一人には、イエス様が十字架にかかられたほどの無限の価値があるということ、これが聖書の教える価値観なのである。


「アドベントとは」

 今年は,11月28日の主日からアドベントに入ります。アドベントは,待降節とも言われます。クリスマスの4回前の日曜日から始まります。このクリスマス前の4週間をアドベントと言い,イエス様の降誕を祝い,来るべき再臨への心備えをする時と言われています。

 

 下手をすると,弁当の一種だと思っているかもしれませんが,ラテン語から来た言葉で「~に向かって接近する(ぐんぐんと迫ってくる)」という意味です。

 

 何に向かって心を接近させるかがポイントです,前述のように,「主のご降誕を祝い,愛の業に励みつつ,再び来たりたもう主を待ち望む」というのがアドベントです。主が私たちの救いのために接近してくださるので,その救いの完成を待望できるのです。

 私たちが待っているようでありながら,じつは私たちが待たれているとも言えます。だから,わくわくするような気持ちで前進したいものです。

 

 その通り,アドベントという言葉から,ベンチャー(大胆極まるふるまい),アドベンチャー(冒険)という言葉が出てきたのは偶然ではありません。

 

 「もし遅くなっても,それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3)

背後にすでに来られたイエス様のご降誕を,前方に主イエスの再臨を待ち望みつつ過ごすのがアドベントです


桜と復活祭

 桜は他の木とは違い、花が先に咲き、後から葉が出ます。このことから、枯れ木にいのちが宿ったように花が咲き誇る様子が、イエス様の死からの復活と重なり、復活をイメージさせます。「そこで、今年の復活祭(4月21日)には、桜色の何かを身に着けて礼拝に出ましょう」ということになりました。服でも、アクセサリーでも何でも結構です。講壇から会衆の皆さんを見る時、桜の花が満開になるようで、考えるだけでワクワクしてきます。

 

 復活祭を一般的にはイースターと言います。礼拝でも申し上げましたが、何故イースターと言うのかを確認します。

 

 これは「エオストレ」という春の女神の名前から来ています。キリスト教の広がりとともに、異教の春の祭りが復活と同じような新しいいのちのイメージで祝われていたため、これをキリスト教化したものです。

  クリスマスがローマ帝国時代にあった異教の冬至祭をキリスト教化し、クリスマスとしたのと同じです。

  ともあれ、キリストの復活が死の闇を破って暁のように、この世に光をもたらす、そういう意味も込めて春の祭典を主の復活の祭りと変えていったものです。

  イースターという呼び方は、そういうわけでもともと異教の女神なわけです。だから、私はイースターという呼び方はしたくありません。主の復活を祝うのに、何故異教の女神の名を使わなければならないのでしょうか。ということで、私は「復活祭」という名称にしています。

  クリスマスも復活祭も異教の祭りをキリスト教化したのですから、凄いと言えば凄いことです。この世のものを主のために生かす知恵と工夫の大切さを教えられます。

 

 ところで、クリスマスと復活祭のどちらが早く祝われていたと思いますか。順序から言えば、クリスマスとなるでしょう。主の降誕なしには何も始まらないのですから。

  ところがそうではなく、復活なのです。主の復活があればこそ全てのものに意味が出てくるからです。主の生涯も、誕生も。

  確かに十字架で全てが終わってしまえば、単なる愛の美談か悲劇になってしまいます。そればかりか、私たちの信仰も人生も意味がなくなります。

 

 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15:17~19)

 

 初めに復活ありき!です。


イクスース

 イエス・キリストと聞くと一般の人は、イエスが苗字でキリストが名前だと思っていることが多い。しかし、実はイエスが名で、キリストは職名である。昔ユダヤでは、神聖三職(預言者、大祭司、王)に就く者は神からの豊かな祝福がなければ務まらないと、神の恵みが天から豊かに与えられることを意味する油そそぎが行われた。キリストとは、油そそがれた者というのが原意である。そこから真の救い主は、神聖三職を一身に兼ね備えた存在であると理解され、ついにキリストは救い主を現すことばとなった。 

 

 キリスト教というと、キリストによる優れた教えと理解されがちだが、単なる教えではない。いかに偉大な教えであったとしても、いや、その教えが立派であればあるほど、人はそれを実行できない、しても長続きしないことに気付く。

 だから聖書を読むとき、その水準の高さに愕然とし、ある人は、こんなことを要求するなんて、キリスト教は偽善の宗教だと思い、またある人は、神様の基準がこれほど高いとか、ではいったい自分はどうしたらいいのか、このままでは滅びに至る以外にないと思う。

 なるほど、どちらの反応も頷ける。ここで問題になるのは、人間が罪ゆえに神様の求める基準から全くかけ離れていることである。したがってそのままでは、聖書の教えに対しては、批判や絶望が生まれるのは当然である。

 

 初代教会では、魚の絵がクリスチャンを表すしるしとして用いられた。それは、魚を表すことばが、イエス、キリスト、神、子、救い主の頭文字を合わせたものとなるからである。真の神は、ひとり子をイエスとしてこの世に送り、人の罪の身代わりとして殺した。それによって御子を信じる者の罪は赦された。

 そればかりでなく、信じる者に与えられる神の力により、神の教えを実行する力をも得ることができるのである。


この宮の栄光は

 「この宮のこれから後の栄光は,先のものにまさる。」(ハガイ2:9)

 

 紀元前6世紀,ハガイの時代に再建された神殿は,ソロモンの神殿との比較ではもちろんのこと,後のヘロデ大王のてによる神殿に比べても小さく,見劣りのする建物であった。しかし,主はそうは見られないというのである。建物の大小,その費用の多少にかかわらず,神殿再興までの過程にこめられた信仰にこそ目を留め,価値を認められるのである。

 この松原にも,何十億もするビルがある。けれども教会員が精一杯の信仰と犠牲をもって建てる教会堂が,私には何よりもいとおしく尊く思われる。一人一人の真実な信仰のささげものの結果だからである。

 もしこの教会が,買った宝くじが当たって与えられた資金により,何の犠牲も払うことなく建つとしたら,どうであろう。そこに心から湧き上がる喜びや感動があるであろうか。そしてそこから宣教への熱い思いが出てくるであろうか。

 主は現会堂を豊かに祝してくださった。当時の教会員の信仰と犠牲を主は喜んでくださり,以前の会堂は3年ほどで満杯になってしまった。そこから借金を抱えながらも次の会堂への思いが与えられ,以後年々その必要性と求めは強まっていった。8年間は主の道が閉ざされ,教会員は祈り疲れ,「主よ。なぜ道を開いてくださらないのですか」と問うた。

 1995年,教会員と上棟式に臨んだ時,しみじみ思った。もし以前の祈りが聞かれていたら,この場所は与えられなかった,資金的に大変な思いをしたろう,まさに主のなさることには時があり,最善と。

 そして,この会堂を以前にもまして,豊かに用いてくださるとの信仰の裏付けとして,冒頭のみことばも,大黒柱の鉄柱にマジックインキで書き入れた。