私は、パパとママの初めての子供として、2009年に生まれました。ママのおなかにいるときから、教会に来ていましたが、生まれてからはパパに抱っこしてもらって教会に来るようになりました。なぜパパに連れて来てもらったかというと、私が生まれるまで教会の人たちにたくさん助けてもらったので、私が歩けるまで抱っこして連れて行こうと思ったそうです。パパの洗礼の証の時も抱っこされていたそうです。
私にはどんな罪があるかというと、学校で強い子に対して恐れる心があります。私の仲の良い友達が仲間外れにされている時、かばってあげたり、強い子に注意したりできないです。私が仲間外れにされたり、嫌なことを言われたりするのが怖いからです。でも、こんな罪のためにイエス様は十字架にかかってくれたのが分かりました。だから、私は洗礼を受けてイエス様についていって、私の周りの人にイエス様のことを伝えたいです。
私の好きなみことばは、イザヤ6章8節の「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」です。私はイザヤさんのようにイエス様の喜ばれることをしたいです。
大きくなったらJキッズのスタッフの奉仕をしたいです。
4月30日(月)、父(87歳)と母(82歳)が受洗の恵みに預かりました。私が洗礼を受けて23年になりますから、23年目の祈りの答え、またとりなしの祈りが始まって最初の祈祷課題として、父母の救いを祈っていただいてから6年目の成就でした。
不信仰な私は両親が救われるようにと祈っていましたが、受洗のためにとは祈っていませんでした。ですから今回の受洗は、神様からの一方的な思いがけないプレゼントでした。
牧場の方々はもちろん、教会の方々、これまでとりなしのメンバーに入ってくださり、顔も知らない両親のために祈ってくださった方々には、感謝しかありません。5月6日のメッセージでも語られたように、父は死んだらどうなるのか不安なようでした。弱りゆく母の世話を通して死を身近に感じるようになり、不安で夜も眠れなかったと言います。福音を語った時は、まるで幼子のように素直に信じ受け入れました。
父は信仰熱心で、つい最近まで毎日神棚に手を合わせ花や水を変えていました。ですから、本当に不思議です。『少年H』の妹尾河童さんとは同級生で、よく一緒に遊んだそうですが、熱心なクリスチャンであった河童さんのお母様は、息子の友達の救いを祈ってくださっていた事でしょう。父は75年も前から祈られていました。私は天国に行ったら真っ先に妹尾さんを探し、お礼を言わなければなりません。母も父と一緒に天国に行きたいと、すんなりとイエス様を信じました。
「とりなしの祈り」は、課題を出すまでが人間のすべきことです。あとは、ご奉仕の方々にお願いし、祈っていただくだけです。願うように応えられない祈祷課題の応答、ピンクのカードに「変化ありません。」と書き続ける事は、時にしんどくなることもありますが、神様の時がまだ来ていないから・・というだけなんだなあと改めて思いました。私自身も、祈りが聞かれるどころか、ますますマイナスの方向に事が進んでいると思うこともあります。それも神様の許しの中の祈りのお答え・・、すべて益です。
父は、今「礼拝に出たい。」が口癖です。教師をしておりましたので、人前で話す事を苦にしません。その時は、皆さんの前で救いの証をしたいようです。高齢ゆえに、お聞き苦しいかとは思いますが、ぜひお許しくださり、つたない証をお聞きいただければ幸いです。本当にありがとうございました。
私がはじめて教会と関わりを持ったのは4歳頃の事です。当時は大阪市M区の団地に住んでいました。その頃いつも遊んでいたお友達がある日を境に急に公園に来なくなりました。母にたずねると「幼稚園に入園したみたい」と言いました。お友達はみんな三年保育で入園してしまったのです。私ひとり残ってしまい、毎日母に「私もどこかに行きたい」と訴えていたところ、近くの教会でやっている日曜学校を貼り紙で知り、行くようになったのがきっかけです。
そこはこじんまりした一軒家の教会でした。日曜学校といっても、普段は牧師先生の息子さんふたりと私、そしてもうひとり位の少人数です。紙芝居を見たり、カードゲームをしたり、こどもさんびかを歌ったりと、毎週楽しかった記憶があります。中学校に入学したあたりまでは、続けて通っていました。そのうち、クラブ活動の試合や練習が入るたびに途切れだし、そのうち「日曜学校があるからクラブに遅れる」と伝える事も、「クラブがあるから日曜学校をお休みする」と言うことも、どちらも億劫になり、結局教会と疎遠になっていきました。
私の両親は共に再婚同士で、母が40歳を過ぎて産まれた私はひとりっ子です。母は私を産んですぐに体調を崩し、リウマチという病気になりました。日々進行していくリウマチに、寝たままの日も、歩くのもままならない時もあり、体をだましだまし家事をこなしてくれていました。父はよく働く人でした。ですが、私が10歳の時に祖母が亡くなり、次第に深酒をするようになりました。アルコールで体を壊し、快活だった人柄も変わっていき、最後は肝臓と直腸がんで入退院を繰り返し、亡くなったのは私が19歳の時でした。
そんなこんなで、結婚願望は無かったのですが、めぐり合わせがあり21歳で結婚をして、松原に引っ越して来ました。長男を産んだのは、30歳です。
元々子供が得意ではなかった私には、子育てはとてつもなく難しく、育児書やインターネットでいろいろ調べては、毎日途方に暮れていました。インドア派で引きこもり体質の私は、子連れで出かける支度すらストレスを感じていましたが、それ以上に子供の成長や育児に自信が持てず、家にいるよりは子育て支援センター等に必死に出かけて行って、第三者の目がある場所にいる事で安心感を得ていました。
そんななか、ベランダで洗濯物を干している時に、2軒隣のHさんに「文庫っていうのを教会でしているからおいでよ」と声をかけられたのです。その時はじめてジョイファミリー教会がある事を知りました。
文庫のスタッフのみなさんはとても優しく親切でしたが、優しくされればされる程、自分は手助けしてもらわないといけないくらいなってないように見えるのか、と自己嫌悪に陥り、素直に言葉を受け取れませんでした。そんなある日の、文庫のお祈りの言葉の中に、小さい頃に日曜学校でよく聞いたフレーズがあり、その時自分がいま居る場所は教会なんだと改めて気づかされました。行く所がないから行っていた文庫が、毎週楽しみなものへと、少しづつ変化していきました。
そうして、プリに通い、幼児園に入園してみたものの、生来の引きこもり体質にひとりっ子の自己完結でコミュニケーション能力が欠如している私には、お母さんたちとの交流にあまり積極的になれず、気さくに声をかけてくれることも重く感じる事がありました。そんな気持ちのくたびれた母親の元に産まれてしまった我が子が不憫だと、よく思いました。
次男が入園する直前に、M区の実家でリウマチとなんとか付き合いながらひとり暮らしていた母が亡くなりました。ヘルパーさんがデイサービスの送迎に来て、見つけて下さいました。亡くなる何日か前に、母から電話があったのですが、夕飯の支度の最中だか何かで忙しくしていて、電話も話半分につっけんどんに話しておしまいでした。結局、それっきりです。あの時の、あの電話でもっとちゃんと話をしておけば良かったと、今でも悔やまれます。
お酒にのまれてしまった父も、当時思春期だった私には到底受け入れがたく、失望の極みでしたが、今ならほんの少しだけ、お酒の力で寂しさを紛らわせたかったのが度が過ぎたのだと、理解できなくもありません。
私は、いつも、後から気付くのです。後悔しても、戻ってやりなおせない。
何でもかんでも後手にまわり、遅いばかり。そんな自分を思い出しては嫌になります。息苦しくなると、見てみぬふりをしてきました。他の人と比べては妬み嫉み僻み。漠然といつも何かを羨んで、閉塞感を感じて疲れていきます。
母の葬儀の後、すごく疲れていました。ただ、これで両親ともに居なくなった私には、無条件でほめて受け入れてくれる存在はもういないのだと思った時、それなら自分自身で自分をほめてあげられるように仕向けなければ、私自身がかわいそうだと思ったのです。
私が楽しくなければ、きっと我が子だってつまらない。母は歩く事もままならなかったけど、私は太めですが元気で自転車をこぐのも速い。まだ、掴む藁はどこかにあると、参加を決めたのが幼児園の子育てセミナーでした。
そうして、子育てセミナーできっかけをもらって、少しずつ取り入れて行きました。自分では、あまり変化を感じないのですが、牧師先生は「変わった」と仰います。人との関わりは相変わらず不得手ですが、自分の失敗談で誰かが笑えるのなら役に立つし、いろいろやられた我が子も報われたりするのかもしれません。そして、こういう事が分かち合いなのかもしれないと思いました。
去年、長男が洗礼を受けました。幼児園に入園してからずっと、わりとまじめにJキッズに通い、ディボーションも取り組んでいます。 子供のディボーションのお話をみて、自分が小さい頃に日曜学校で聞いた紙芝居を思い出したりしていました。長男は洗礼を受けましたが、他の家族はクリスチャンではないので、中途半端な部分が気がかりでした。そうした時、牧師先生からのお声かけもあって、聖書の学びをはじめました。
学びの中で、『無条件的選び』を知った時に、小さい時の日曜学校ではじまった関わりが今の私に繋がるのかと驚き、そうして選んでくださっているのなら、それにこたえたいと思いました。また、妬み嫉み僻みというやるせない気持ちがあっても、それが私で、その罪を背負ってくださったイエス様の事を思った時、息苦しさが薄らぎました。ふとした時に、父なる神様がいてくださると思うと、自然と感謝だなと思います。
まだ戸口に立ったばかりです。いろいろとふわふわしていますが、どうぞ、お導きください。また、私や、私の家族、そして今日ここに立つに至るまでに手を引いてくださったみなさまに心から感謝を申し上げます。
「少しずつ変えられる」 K・Mさん
松原聖書教会に初めて来させていただいたのは、今年1月マリッジセミナーでした。破れ鍋に綴じ蓋の私共夫婦ですので、今まで数多くの夫婦の危機はありましたが、昨年末の危機はもう本当に別れるしかない・・・と思えるものでした。“浮気をした”とか“ギャンブル狂い”とかそういったものではなく、例えば私が流しにおいてあるお皿を何気に洗うと、妻としてはそれがお皿を放置している自分に対する当てつけに見える等々、お互いの善意にさえ怒りを感じるという凄惨なものでした。
マリッジセミナー参加は、同じ牧場のM夫妻の勧めによるものでした。今考えると、夫婦の関係が修復され、更に改善するため来させていただいた・・・というより、人間の怒りがそこまで長続きしなかった、もっと言うと、妻に行きたくないといって、いまさら家庭を波立たせたくないということだったかもしれません。セミナーは、私共夫婦にとって本当に有意義なもので、最初のマリッジタイムは神戸三宮まで行って持ったものでしたが、これを持ったことによって、改めてお互いの違いを認識することが出来た、違っていることを認め合うことが出来たなど、本当に感謝です。
夫婦間のこともさることながら、会社のことでも大きな悩みがあり、この時期本当にしんどい日々を過ごしていました。中小企業の人材難はいずこも同じですが、私はもう十数年にもわたって山本五十六の“やって見せ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば人は育たじ”を実践しているつもりでいたのですが、若い子たちの返答は“やって見せ、言って聞かせ”ようとすると、「無理無理無理!!」無力感でどうしたらいいか判らない状態に陥っていました。
もう本当に会社を辞めようと思い、その思いを彼らに伝えたところ、こんな答えが返ってきました。「自分たちは自分たちなりに頑張っているのだけど、Kさんの要求はあまりにハードルが高すぎる、今はKさんが怖くて仕方がない・・・」
私は、声を荒げてしかりつけたことはおそらく一度もありません。でも完璧主義の私は、いつの間にか、遅々として進まない現状や、そのいらだちから、彼らからすると、高見から見下ろすような指導と感じていたようでした。もう一度冷静に、彼らを見てみると、確かに歩みは遅いものの、間違いなく進歩していたのです。
世の中には、何も努力しないで、100メートル12秒で走れる人もいるが、本当に努力しても15秒を切れない人もいる、彼らの努力を見ようとせず、また彼らの成果を認めようとせず、高圧的になっていたことに気づき、心から反省しました。それから僅か半年程ではありますが、今は彼らが出来たことを誉めるように努めています。そうしますと、僅か半年程であるにも関わらず、彼らの私を見る顔つきに笑顔が多くなって、なんとありがたいことに「Kさんには、可能であれば70歳まででも80歳まででも頑張ってほしい。」などと言ってくれるようになりました。
10月28日の野口先生のお話の中で、ほめることの大切さを語っていただきましたが正にその通りでした。今私は、もう還暦間際ではありますが、少しずつ変われるかもしれないと感じています。
食品会社で品質管理を20年もやっていると、1時間程話をしてほしい・・・などの依頼は結構頂きます。今まではSAD(社会不安障害:Social Anxiety Disorder)だから・心筋梗塞再発する・パニック症で・・・などとすべて断ってきましたが、先だって、ある大学から依頼があり、学生・関連教授・一般の方を対象に90分ほどの講演をさせていただきました。これは、今までの私では、考えられないことです。
元々、内向的で対人恐怖の傾向のある私にとって、教会という組織に属するということ自体恐怖がありました。内村鑑三の教会を否定し、聖書と信仰のみを重視するという無教会の考えについてはかなり傾倒しておりましたが、今行っていただいている“学び”でお教えいただいた教会論では、まさにこのしこりが取れた思いでした。
私は、未だかつて自分を好きだと思ったことはありません。勿論自分に自信を持てたことなど一度もありません。高校で3年間結構スポコンで得た黒帯も、長年続けた習い事でいただいた免状も、結局私自身の自信に繋がるものではなく、自分のダメさを実感するだけのものでした。今もその柱のところに座らせていただいておりますが、とにかく横に壁とは柱とかないと安心出来ない、そんな私です。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタイ11:28)
先日11月12日、転会のご挨拶の為松山にある教会に行ってまいりました。洗礼を授かったのが1989年6月25日で、今年でなんと30年目となっておりました。
アメリカの町で、韓国系のアメリカ人T先生という方に初めて教会に連れて行っていただき、その素敵な雰囲気に魅了され、早速地元の松山の教会で受洗をいただいたのですが、それ以来で・・・いや生まれて初めて、今背負っていたものが少し軽くなった思いがしています。
父が絵に描いたような大正生まれの頑固者で、物心つくころから神社に行っても「5円10円でお願いするんなんか、不届きじゃ!漢はこうこうするから神様見とって!と約束するものじゃ!!」と教えられてきました。だから、今も感謝は出来ても願うことには極度の罪悪感があります。
今はまだまだ、無理です。でもこの教会の末席にいさせていただけたら、少しずつ変われそうな、いつか自分を好きになれそうな、改めて又習い事を初めてみたくなるような、自分に自信が持てそうな、壁や柱の無いところでも座れそうなそんな予感で、今少しワクワクしています。
私は、1967年にT家の長男として生まれました。高校生まで(正確には一浪まで)を埼玉県で過ごしました。一年の浪人生活を経て1987年関西の大学に進学することになり、初めて関西に住むことになりました。
妻と知り合ったのも大学時代で、彼女は滋賀県の看護学校へ通っているとても純粋な学生でした。デートで京都のとある寺院へ行った時のことです。当時、私は喫煙していたのですが、「境内一円禁煙」という看板を見た彼女が一言「一円とるくらいやったらタダにしてくれたらいいのになあ。」それを聞いた私「本気で言ってる??」 ちょうど1990年に大阪で『花の万博』が開催されていた時のことです。『咲くやこの花館』の前にいた綺麗なコンパニオンのお姉さんを見て、妻が一言「私もなれるかな??」「何になるの?」「パビリオン」「パビリオンは建物だから無理じゃない」
ということで、1993年に結婚しました。結婚当初は私が東京勤務でしたので、墨田区の今スカイツリーが立っているあたりに住みました。94年には長男が東京の聖路加病院で生まれました。 99年に二男が、妻の実家のある滋賀の病院で生まれました。その当時は、寅さんで有名な柴又帝釈天のそばに住んでいたのですが、妻は二男を出産するために長男を連れて里帰りしていました。産後もしばらく実家にいましたので、私は東京で久しぶりの一人暮らしを結構楽しんでいました。まだ3人が帰ってくる前に、会社から4月より大阪に行ってもらうとの内示を受けました。
99年の4月、とうとうこの約束の地「松原」へ住むことになりました。 慣れない仕事で、しかも初めて住む松原は、メイン通りは狭いし、自転車は多い。自転車に乗っているおばさんたちは、サンバイザーを目深にかぶり、みんな自転車に傘立てをつけていて、車の間をすり抜けていくという、東京では見ることのない光景に最初は戸惑いました。しかも99年はノストラダムスの大予言の年でした。何かが起きる?
2年後、2001年4月、私は単身で中国へ赴任、長男は小学校へ、二男はジョイファミリー幼児園のプリスクールに通学することになりました。その間に、子育てのことでいろいろ悩んでいた妻は、ジョイファミリーの教会の子育てセミナーに参加し、長男にも教会に行くことを勧め、3人ともこの松原聖書教会でお世話になっていました。
3年間の中国赴任を終えた私は、再び東京へ帰任することになり、ようやく単身生活も終わりかと思っていました。しかし、松原に生活基盤のできた妻、長男、二男はなかなか東京へ行きたがらず、結局、二男が幼児園を卒業するまでのもう1年、私は埼玉の実家から東京へ通うことになりました。1年たって東京へ引っ越しをしたのですが、当日はYさんがお掃除を手伝ってくれて、駅まで車で送ってくれました。その時、妻は東京へ行きたくなくて、ぼろぼろと涙をこぼしていました。
東京では、長男と二男は小学校へ通いだしました。東京近辺の教会を紹介してもらって何度かは礼拝に行っていましたが、子どもたちは軟式野球を始め、教会へ頻繁に行くことはなくなりました。ただ毎週日曜日の夜になると、H先生から長男宛に1週間分の子供デボーションのFAXが何枚も入り、ずっと気にかけてもらっていてありがたいことだなと思っていました。
東京で仕事をしていた私は、たまたま縁があって、大阪にある会社と商売をさせていただくことになりました。比較的順調に取引はスタートしたのですが、ある時、納期のトラブルで、松原まで上司と一緒にお詫びに伺いました。会社から駅までの帰り道で、上司に「妻も子供もこの松原がよかったみたいで、引っ越しの時は泣いていました」という話をしました。 半年後、上司に「大阪に行ってもらうことになった」と告げられました。家で妻に話をすると大変喜んで「奇跡や、奇跡や」と言っていましたが、東京で中学受験をする長男には伏せておこうということになりました。
2007年4月、再び約束の地「松原」へ帰ることになりましたが、子供達は昔の友達がいる学校へ行きたいという希望がありました。以前に住んでいた所には住むことができず、間取りや学校のことを考え、たまたま商売してい会社の近くのマンションに住むことにしました。引っ越し先では、Eさんがお手伝いに来てくれて「戻って来られてよかったですね、本当によかったですね。」と言ってくれました。マンションからその会社を眺め、「人間万事塞翁が馬」ってこういうことかな、としみじみ思っていました。
マンションに住んでしばらくして、二男が野球をまたやりたいという話になりました。教会でちょうどソフトボールのチーム『フレッシュウィンズ』を作って頂けることになり、中村先生やUさん、Yさん、Hさん、Tくんと一緒に、コーチとして参加させてもらいました。土曜日の早朝、大和川のグランドに行っていたことが懐かしく思い出されます。
ちょうどこの頃、妻が家を松原に買おうとしきりに言いだしました。私の方はとりあえずいろいろ見てみるかと、軽い気持ちで家を探していましたが、ある場所の戸建てがよさそうだと、妻が積極的に話を進めはじめました。そろそろ決めないと、というタイミングで、妻の親戚が松原に土地を所有していることがわかり、買ってくれないかという話が持ち上がりました。そこなら注文住宅を建てられるし、なによりも妻と子供たちは、教会の近くの通りに家を建てられると喜んでいました。 話がトントン拍子に進み、地鎮祭を行うことになったのですが、喜んで野口牧師先生がやってくれるということで、キリスト式地鎮祭をお願いしました。日本酒ではなくワインを撒くということで、赤ワインで土地を清め、その日からT家の聖地となりました。
その後、家の教会が始まり、私は妻の所属していたT牧場に、ゲストとして参加させてもらいました。T牧場はゲスト参加の人も多く、またOママを始めとして、料理が上手な方が多くいます。おいしい料理と楽しい仲間につられて、妻とともに楽しく参加させてもらいました。また、Tさんにはゴルフも誘ってもらい、OパパやMさんのご主人、Kさんのご主人、Iさんと何度かご一緒させていただきました。
2014年1月に、再び中国へ行ってほしいと会社から打診がありました。正直言って、大阪での仕事、充実した週末に満足していた私は、今更空気の悪い中国へ赴任するのはいやだなと思いながら、結果的には断ることができずに、4月より赴任することになりました。T牧場では、壮行会を開いていただき、皆さんに寄せ書きやみことば、励ましを頂きました。
赴任した直後よりどんどん円安が進み、一時1ドル=125円という円安の中で、日本をメイン顧客としていた中国法人の業績は下がっていき,仕事ではストレスのたまる毎日でした。それでも週末はゴルフや水泳など運動をしてストレス解消していたのですが、2015年9月の連休の期間のことでした。手の先と足の先が痺れ出し、歩行するのも違和感を覚えました。脳梗塞で倒れて亡くなったり、半身不随になったりした駐在員を見てきた私は、大変不安になり、すぐに病院で検査を受けました。次から次へと大きい病院を紹介され、脳のMRIやCTをとりましたが、なかなか原因がはっきりしません。結果的には、頚椎・腰椎の椎間板ヘルニアという診断でした。むこうでの治療は、針、吸い玉カッピング、首や腰の牽引をしてもらいましたが、なかなかよくなりません。運動もできなくなり、週末は朝から洗濯をしながらTVを見て、酒を飲んで過ごすようになり、夜もよく眠れないようになりました。
そういう状況の中、弟の奥さんが癌でステージ4だと妻より知らされました。なにも弟を助けてあげられなくて非常に苦しい思いで、毎日仕事をして、夜は、LINEが中国では禁止になってしまったので、WECHATというアプリを使って妻に愚痴を聞いてもらっていました。愚痴を聞いてもらっても、次の日のことが不安でますます夜眠れなくなっていきました。
妻がその当時送ってくれたみことばの一つに
『神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものは全て与えられます。明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日、その日に十分あります。(マタイ6章33.34節)』
があります。自分の力だけで、会社での地位を築いてきたと思っていた私は、そんな苦しい思いをしたことがなかったので、妻の送ってくれたみことばに励まされました。
『わたしは苦しみのときに彼と共にいて彼を救い彼に誉れを与えよう (詩篇91章15節)』
赴任する直前のT牧場の壮行会でOママが書いてくれたみことばです。赴任先の部屋に飾っていましたが、このような苦しい思いをしていなかったら、声に出して読み上げることはなかったと、今は改めて思います。
昨年の4月に大阪に戻ってきた私は、妻の勧めるままに教会に毎週行くようになりました。ただ、旧約聖書の創造論がどうしても理解できないので、なかなかクリスチャンになるのは難しいと思っていました。「聖書について学びませんか」とTさんに言われた時に、私が理解できるかなあと思いましたが、とりあえず一度まじめに学んでみようと思い、野口先生とマンツーマンでの学びがはじまりました。野口先生は、聖書初心者の私に、時にはユーモアを交え、時には外人の書いたアカデミックな本を引用して、時には坊さんがクリスチャンになった例をあげて、聖書を科学的に、また歴史をひも解きながら、教えてくださいました。またキリスト教のことだけでなく仏教やイスラム教など他の宗教についてもわかりやすく、教えてくれました。ただクリスチャンになるには、なにか奇跡的な神の御業が自分に起こらないとなかなか難しいなあと感じながら、学びをしていました。
そんな私にとって1つのきっかけとなったのは、今年の1月末に弟の奥さんが癌で亡くなったことでした。連絡を受けてから、弟や甥姪にかけてあげる慰めの言葉を探していたのですが、なかなか見つかりませんでした。そんな時、牧師先生がホスピスに勤めていた方が書いた本を貸してくれました。そこには、死と向き合う患者との関わり方を通じて、死が永遠のお別れではないということが書かれていました。自分の言葉でうまく姪たちに慰めの言葉が言えず、その本の「お母さん」について書いてあった箇所を「ここ読んでみて」といって手渡しました。姪は読み終わると「ありがとう」と言って本を返してきました。私もお通夜からお葬式、火葬場で骨を拾うまで、改めて「死」について考えていました。
学びでは、イエス様が人間の罪のために十字架にかかり死に、死から3日目に復活されたという箇所を教えてもらいました。なかなか信じがたい話ではありましたが、ペテロをはじめとした弟子たちが、イエス様の復活を命を懸けて伝道したという聖書の話を学びました。もしこの話が神話とか作り話であったなら、弟子たちは命を懸けて伝道するだろうか?そう思うとやはりイエス様は信じるに値するのか?私の中に、少しずつ変化が現れてきました。
2月26日に中村忍先生が「心を騒がしてはならない」という主題でメッセージを語ってくれました。「あなたのためにはいのちもすてます」といったペテロに対してイエス様は「あなたは三度私をしらないといいます」とペテロの失敗を予告します。そして「心を騒がしてはなりません」と弟子たちに言います。忍先生ご自身の自動車工場での失敗経験を通して、例え失敗しても全力でトライすること、同じ失敗をしない為に学び悔い改めること、何度失敗してもあきらめずチャレンジすることを示されました。礼拝後の決心の祈りの時に、失敗してもチャレンジできるように、早くイエス様を信じることができるようにと、祈ってもらいました。
3月5日の学びの時、「聖書の教えのすべてを理解しているわけではないですが。大丈夫ですか?」と確認する私に、「日々の信仰生活の中でもっと学んでいけばいいんです。」との牧師先生の言葉に後押しをしてもらい、ついに信仰告白をしてしまいました。
思っただけでも罪になるのであれば、妻に対して、子供たちに対して、両親に対して、罪はたくさんあります。一番の罪は、「信じられるのは自分だけ」という生き方をしてきたことでしょうか?
思えば、1967年に生まれたこと、87年に関西の大学に入学したこと、07年に再び松原に帰ってきたこと、そして17年に洗礼を受けることになったこと、西暦の末尾7の年は私にとって聖霊様がよく働いてくれる年なのでしょうか? さらに、キリスト教に縁のある赤十字の看護学校へ通っていた妻との出会い、ルカに由来する聖路加病院で長男が生まれたこと、二男がジョイファミリー幼児園でお世話になったこと、妻、長男、二男が洗礼を受けてクリスチャンになったこと、すべてが神様の計画のうちだったのでしょうか?
信仰告白をして、罪を赦してもらうと、自分だけを信じていた時にはなかった、安心感がうまれました。神に従って生きていくのだから、今までの自分から悔い改めないといけないという自覚も芽生えました。49年間信じることができずにいた私が今、こうして洗礼をうけることになったこと本当に感謝します。
クリスチャンになって一番したい奉仕は、実は、伝道です。まだまだ学んでいくことは多いのですが、年老いた両親にこの福音を伝え、永遠のいのちを持ってもらいたいと思っています。
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