イクスース

 イエス・キリストと聞くと一般の人は、イエスが苗字でキリストが名前だと思っていることが多い。しかし、実はイエスが名で、キリストは職名である。昔ユダヤでは、神聖三職(預言者、大祭司、王)に就く者は神からの豊かな祝福がなければ務まらないと、神の恵みが天から豊かに与えられることを意味する油そそぎが行われた。キリストとは、油そそがれた者というのが原意である。そこから真の救い主は、神聖三職を一身に兼ね備えた存在であると理解され、ついにキリストは救い主を現すことばとなった。 

 

 キリスト教というと、キリストによる優れた教えと理解されがちだが、単なる教えではない。いかに偉大な教えであったとしても、いや、その教えが立派であればあるほど、人はそれを実行できない、しても長続きしないことに気付く。

 だから聖書を読むとき、その水準の高さに愕然とし、ある人は、こんなことを要求するなんて、キリスト教は偽善の宗教だと思い、またある人は、神様の基準がこれほど高いとか、ではいったい自分はどうしたらいいのか、このままでは滅びに至る以外にないと思う。

 なるほど、どちらの反応も頷ける。ここで問題になるのは、人間が罪ゆえに神様の求める基準から全くかけ離れていることである。したがってそのままでは、聖書の教えに対しては、批判や絶望が生まれるのは当然である。

 

 初代教会では、魚の絵がクリスチャンを表すしるしとして用いられた。それは、魚を表すことばが、イエス、キリスト、神、子、救い主の頭文字を合わせたものとなるからである。真の神は、ひとり子をイエスとしてこの世に送り、人の罪の身代わりとして殺した。それによって御子を信じる者の罪は赦された。

 そればかりでなく、信じる者に与えられる神の力により、神の教えを実行する力をも得ることができるのである。